北浦和公園の近く、中山道の2本裏側にある住宅街を歩いていると、「さいたまのハリとお灸 豊泉堂」の文字が。院内へ入ると、そこは光がたっぷり差し込む温かい空間。笑顔で出迎えてくれたのは、院長の松波太郎さんだ。
松波さんは幼少期からサッカー漬けの日々を送り、高校時代にはスペインでのサッカー留学も経験。プロになることは特に考えていなかったが、実力はあった。大学にもサッカー部に入ることを条件に進学。ただ、ひたすらサッカー漬けの日々は、だんだんとサッカーをやる意味合いを「楽しみ」から「労働」へと変えてしまった。
そんなあるとき、サッカーを続けることが難しくなるほどの怪我を負う。推薦で入った大学も辞めざるを得なくなった。
その後、バックパッカーとして東南アジアをまわり、そこで現地の人とコミュニケーションをとるのに苦労したことがきっかけで、海外留学を考えるようになる。今度の国は中国。理由は、毛沢東への憧れがあった団塊世代の父親を説得しやすかったからで、自分の中では必ずしも中国である必要はなかったという。
そこで語学を学んでいる最中に、中国の鍼灸の本場としての側面を知ることに。鍼灸科が設置されている病院も多く、日本と比べて鍼灸がずっと生活に馴染んでいた。
「あるとき、鍼灸を学ぶ留学生の友達が僕の脈をみただけで、その日の体調を言い当てたんです。前日飲みすぎたことも全部(笑)。あと、うつ病にかかっている人が、抗うつ剤では治らなかったのにも関わらず、鍼やお灸、漢方で良くなっていくこともあったりして、鍼灸の威力を思い知らされました。」
実は、松波さんの父は三重県で地域医療に従事していたお医者さん。西洋医学より東洋医学に重きを置いていたそうで、幼少期の松波さんに薬を飲ませる時は葛根湯や漢方ばかりだった。そんな過去のエピソードを知ると、松波さんが鍼灸に出会ったのは、まるで必然のことのようにも思えてくる。
だが、そこですぐに鍼灸の道に進むことはせず、中国から帰国後は日本の大学院へ進学し、卒業後は小説家の道に進んだ。
「子どもの頃、父の転勤が多く、方言が強いところでは言葉が通じなかった。だったら書くほうが伝わると思って、感情を伝え合うツールとしての字や絵に注目するようになったんです。その流れで文章を書くようになったので、具体的にいつ小説家を志したとかではないのですが……」
デビューして間もなく芥川賞の候補になるなど、作家としてのキャリアは順風満帆。だが、周りの評価があがっていく一方で、自分の中では、文芸に対してかつてサッカーに対して抱いていたような窮屈さを感じるように。不自由さは松波さんにとっての大敵。いったんこの世界からは離れてみよう。そこでやっと、中国で出会った鍼灸が頭をよぎった。
また、小説家という職業柄、患者として鍼灸のお世話になることもあった。小説を書くことよりも、「小説を書ける、読める体」を作ることに興味が移っていったのだ。
そこから鍼灸の専門学校へ通い、資格をとった。卒業後は都内のいくつかの治療院や鍼灸の本場の中国で研修を重ねながら施術の知識を深めていき、今年の3月に本院をオープン。

初めに脈を診断。松波さんは一瞬にして身体の不調を見抜く。

施術の様子。この日は肩こりが和らぐ効果のある経穴に鍼を打つ。

お灸に使用されるもぐさ(ヨモギの葉裏にある繊毛を精製したもの)。
さて、本院のHPを訪れると真っ先に目に止まるのが、青木淳悟や戌井昭人ら著名な作家による「体験のことば」。読んでみると、これはもはや体験記というより立派なエッセイだ。
「みなさん個人的な知り合いで、勝手に“仲間”だと思っていた方々。そこまで深い考えはなく依頼してみたら、ここまでたまりました。改めて読んでみると、それぞれの文章に生まれ持ったリズムが存在しているなと。それは身体の状態と関係している気がします。文章を書くことって、一種のスポーツなんですよね。書き続けることは重労働で、身体の調子が悪いとぜんぜん書けなくなる。小説と身体は切っても切り離せない関係なんです。」
最後に、どんな思いで施術されているのかを尋ねてみた。
「鍼灸師として目指すベストな状態は、『小説をすんなり受け止められる身体』。そもそも健康でないと、小説なんて読めないし書けない。腰痛だったり冷えだったり、細かい不調が改善されていくことはあくまでその過程と捉えています。さらに概念的な話をしてしまうと、僕にとって鍼灸は絵や写真と同じように“すでに小説の中に組み込まれているもの”。いつか自分の鍼灸で感動してもらって、泣かせたい。ユートピアに聞こえるかもしれませんが(笑)、これは本心なんです。」
物腰の柔らかい松波さんのお話を聞いていると、サッカー、小説、そして鍼灸が静かに繋がって、いかに自然な流れに身を任せてここまでやってこられたのかを感じることができた。
精神と身体の関係を整えたいと思ったら、ぜひ豊泉堂を訪れてみてください。