武蔵浦和駅から3分ほど歩くと、何軒か新しい飲食店が立ち並ぶエリアに、川魚を中心に出す「マスカクラブ」というお店を発見。表に出ている看板を見て特に気になったのが「シナノユキマスのお刺身丼」。
この字面は初めて見た気がする。お腹を満たそうと中へ入ってみると、天井には立派な梁が張り巡らされており、予想以上に迫力のある内装。どの席もゆったりとしていて、さらには個室まで完備されている。
さっそく「シナノユキマスのお刺身丼」、さらにランチセットにはもう一つ丼がつけられるということで、これまた珍しい「京鴨のたたき丼」をオーダー。

2種類の丼にお惣菜三種とサラダ、お味噌汁がついたランチセット(1,000円)
シナノユキマスも京鴨も仕込みの丁寧さが伝わってくる美味しさ。川魚や鴨特有の臭みはなく、癖になりそうなさっぱりとした旨味が舌にほどよく残る。
よく見ると店内には「薪かまど」が設置されている。どうりでお米が他より一段も二段も美味しいわけだ。
このこだわりはどこからくるのか? 「マスカクラブ」の背景を紐解くため、メニューを監修する新井宣洋さんと本店でシェフを務める小川友也さんに話を聞いてみた。
「マスカクラブ」は関東で飲食事業を手がけるTPDという企業が展開するお店のうちの一つ。新井さんは全店舗のメニューを決める立場にある。彼の学生時代は柔道一色だった。階級は100kg超級で、高校最後の大会ではあと一つ勝てば井上康生と対決というところまでいった。それだけの実力者だったので日体大からも推薦のオファーを受けたが「自分の身長ではトップになれない」と、高校卒業の時点で柔道の道を断念した。

柔道部員の面影が残る荒井さん。
「そこで初めて将来のことを考えた時に、水族館に就職したいなと。というのは、僕はずっと“魚ファン”だったんですよ。家ではずっと魚を飼っていたし、釣りにもよく出かけていました。当時は世の中が “熱帯魚ブーム”に沸いていましたしね。さっそくいくつか面接を申し込んでみたんですが、水族館のスタッフはほとんどが大学院で(魚を)研究していたような人たちで、予想以上にハードルが高かった。早々に水族館は諦めて、今度は『水槽があるから』という理由だけで居酒屋で働くことにしました。水槽にいる魚たちみんなに名前をつけて可愛がっていましたね。最後はもれなくさばかれるんで悲しかったですけど(笑)」

店内は広々として、外席やカウンターでも料理を楽しめる。
魚を食べること自体も大好きだった新井さんは、働くうちに料理の世界をもっと知りたいと思うようになった。居酒屋で料理の基礎を覚えたのち、本格的な修行を積むため自由が丘にある懐石料理店の門を叩いた。
「色々と食べ歩いた中で一番美味しいと思ったお店にアプローチしました。すると若い人が来たのが珍しかったのか、親方が『昨日、来てたね』と覚えてくれていて。入店してからは、掃除や仕事着のアイロン掛けなどの基礎から徹底的に叩き込まれました。わりと早く料理も任されるようになったんですが、師匠はずっと厳しかったですね。まだ自分にも迷いがあったので、毎日辞めようと思っていました」
入店から約5年で花板まで昇進。そこで師匠から「他で勉強してこい」と言われ、池袋の懐石料理店に移籍。そこでも5年働いた後、ようやくこの道でやっていく決心がついた。そして、友人からの紹介で「マスカクラブ」に入る。
「それまでは限られた層が通うお店で働いていたので、今度は繊細な日本料理をより多くの人に楽しんでもらいたかった。それを叶えるには、今のような居酒屋という形態がぴったりだったんです。今は自分が培った知識と技術を一般に開放している感覚ですね」
そういえば、修行していた2つのお店では、料理のことよりも掃除や素材の管理について厳しく指導されていた。当時はなぜそこまでうるさく言われるのか理解できなかったが、自分が部下を持つようになってから、その心が理解できるようになったという。
「例えば天候によっても出汁の味は変わってしまいます。そんなミリ単位の調整が命の世界では、常にお店全体に目を配っている必要がある。でも、若い時ってどうしても料理のことしか見えない。彼も僕が掃除のことなんかで注意したときには『うるさいなあ』と思っているんじゃないですか?(笑)」
と、横に座る小川友也さんのことをチラッと見る。小川さんは入社してまだ2年目。それまでは居酒屋でアルバイトをしていたが、「マスカクラブ」の料理は同じ飲食店とは思えないほどだった。
「アルバイト時代は料理人になるなんて想像もしていなくて、友達と楽しく遊べればいいやっていうくらいで(笑)。何の目標もなかったんですよね。ただ、このお店では年齢と経験に関係なくどんどん仕事を任せられるので、2年やってみてやっと『料理人になろうかな』と思えるようになりました。とりあえず今は店長を目指しています」

いかにも新世代という感じで終始飄々としている小川さん。
さて、肝心の「川魚をメインに出している理由」について。それは、ある養魚場との出会いがきっかけだった。
「このお店を立ち上げるタイミングで、友人に信濃川の上流部分にある飯田養魚場を紹介してもらったんです。そこではシナノユキマスや信州サーモンを育てていたんですが、数が少なかったので県外にあまり出してこなかったらしくて。だけど、淡水魚としては驚くほどレベルが高かったので、なんとかお願いして卸してもらえることになりました」
かくして「マスカクラブ」の形ができあがった。ちなみにこの店名には、川魚の『鱒』、お酒をつぐ『枡』、さらにお米を計るときに使う『升』、3つの意味が込められているという。個性あふれる素材、懐石料理仕込みのたしかな腕、さらに若いエネルギーまで相まって、ここに新たな名店が誕生した。